それは北原瀬奈と北原素直が二度目の性転換を体験して、一ヶ月たった頃のこと。

 あと三日で薬の用意ができて、晴れて元の姿――男に戻れることとなり、瀬奈と素直は同居しているアパートで、薬の制作者にして瀬奈の妹である北原美里と一緒に、「前祝い」と称して優雅なティータイムを楽しんでいた。

「わ! すんごく美味し〜い。これ素直お姉ちゃんが作ったの?」

 美里に手作りのお菓子を褒められて、ポニーテールの少女――素直が満面の笑みをこぼした。

「ホント? 嬉しいな。姉さんに教わって作ったんだけど、成功して良かったわ」
「そうね、合格点よ素直。あたしが教える事はもうないわね」

 美里の言葉を後押しする知的なメガネ美女、瀬奈。
 素直は姉のほめ言葉に「やったあ♪」と小さくガッツポーズを取り、自分もいそいそと席に着くと、カップの紅茶に口を付け、ずずず……と小さく啜り込む。多少がさつに映るが、16歳という彼女の年齢を思えば、無理もない事である。
 対してこの場での最年長の女性は、優雅な手つきで素直お手製のイチゴのミルフィーユをフォークで割り裂いて、上品に口に運んでいる。きちんと横に倒して割っているので、見た目も崩れず、パイ屑の欠片も皿の上に多少散っているだけ……という、テーブルマナーの見本のような光景だ。
 それに比べると美里と素直の皿の上は、かなり悲惨な状況になっている。これはふたりが特別下品なワケではなく、「ミルフィーユ」という菓子の特性上、仕方のない事であろう。瀬奈もそれを承知しているのか、ふたりを咎めるでもなく、優しい瞳で見つめている。
 生来の女性でもこうはいくまい――というほど、上品な仕草が身に付いている瀬奈であった。

「それにしても自家製のパイを作るなんて、よくやるわよね? 確かあれって、何回も何回も畳んでは伸ばして、何回も冷蔵庫で寝かせて――なんてことやるんじゃなかった?」
「そうだけど……そんなに面倒でもなかったわよ? やること自体は単純なんだもの。ね、姉さん?」
「そうね、単純といえば単純だけど……」

 素直に答えながら、瀬奈は苦笑を浮かべた。
 パイ作りを単純と言いきるあたり、素直にはパティシエの才能があるかも知れない――とも思う。元々裏方作業の方が好きなようだし、華々しく活躍して注目を浴びる事に、彼女は大して価値を見出していない。

 ――ひょっとして男に戻るより今の姿の方が、素直には合っているのかしら?

 瀬奈が柄にもなくそんなことを考えていると、美里が声をかけてきた。

「それにしても瀬奈お姉ちゃんもすごいよね……パイなんて手間のかかるもの作れるだけでも相当の凝り性だよ? そういえばお姉ちゃん、シュークリームも得意だったよね?」
「そう? 自分じゃそんなに大したことはないと思うけど?」
「大したもんなのっ。自覚しなさいよ、瀬奈お姉ちゃん」

 やや強めに言い切られて、瀬奈はそうかな? と首をかしげた。
 確かに菓子作りは好きだが、凝り始めたのは最初の性転換があって2ヶ月目位からだから、経験としては大して長くはないし、レパートリーもそんなに多くはない。まあ、興味本位とはいえ、オペラまで作ったのはやり過ぎだったか――とも思うが。

「まあ、お菓子のことはともかく……」

 気を取り直して姿勢を正す美里。彼女の真剣な表情に、瀬奈と素直も居住まいを正した。

「ちょっと面倒があってね……あたし、アメリカに行かなきゃならなくなったんだわ」
「「……!?」」





同居人〜if〜

作:HIKO(原作:城弾さん)




「アメリカ? いったいどうしたのよ突然?」
「わ〜、いーなー美里ちゃん。……で、どこ行くの?」

 真剣な顔で問いかける瀬奈に、対照的に満面の笑みで訪ねる素直。
 美里は彼女に向かってにっこりと笑いかけ、うれしそうに答えた。

「今いっちばんアツいところよ。日本人メジャーリーガーの生息地、赤い靴下!」
「そっかー、『一郎さん』に会いに行くのね?」
「それはシアトル」
「じゃあ、じゃあ、日本の怪獣さん♪」
「それはニューヨークっ!」

 軽快なノリでボケと突っ込みを繰り返す美里と素直。
 リズム感さえ伴っているから、おそらくわざとだろう。瀬奈はふっと笑い、落ち着いた口調で言葉を紡いだ。

「なるほど、ボストンね。でも野球観戦ってわけでもないでしょうし、行くとしたら……大学関連かしら? ボストン大とか……まさかM.I.T.ってこともないでしょう?」

 おとがいに指を当てて呟く瀬奈に、美里は鋭いっ、と声を上げて、びしっと指差す。

「そのものズバリよ、瀬奈お姉ちゃん。急遽M.I.T.に行かなきゃならなくなっちゃってね」
「ええっ? だってあそこって工学系じゃない。美里の得意分野じゃないでしょう?」
「美里ちゃん、M.I.T.って……まさかあのM.I.T.?」

 おずおずと問いかけた素直に、美里は瀬奈から視線を転じて答える。

「そうよ、素直お姉ちゃん。M.I.T.……マサチューセッツ工科大学よっ」

 マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology――通常は頭文字を取って『M.I.T.』と呼ばれる)は、米国マサチューセッツ州ケンブリッジ市(ボストン市の近郊)にある私立大学だ。最先端技術の集積地であるボストンのルート128地域において中核的な役割を果たしており、その知名度や技術力は米国最大の技能集団街でもあるシリコンバレーにも匹敵する。端的に言えば『頭が良くなければ入れない学校』で、そういった意味では美里なら充分やっていける大学なのだが、工学系ならともかくフラスコを振り回すのを得意とする彼女が行きたがるとも思えない。

「でも美里、さっきも訊いたけど、あそこって美里の得意分野とは違うでしょう? わざわざこの時期に何の用なの?」
「認識不足よ瀬奈お姉ちゃん。あそこにだって科学部はあるわ。医療に至っては大学院まであるし……まあ工学系ほどメジャーじゃないけどね」
「そっか……それもそうよね」

 苦笑して頭を掻く瀬奈。確かにそうだ。大学と名の付く以上、普通ある学部は揃っていると見るべきだろう。固定観念、恐るべしである。

「でも問題は学部じゃないのよ。お姉ちゃん、以前あたしのクズ論文をコニーさんに渡した事があったわよね?」
「コニーに? ……ああ、あれの事?」

 英語教師の瀬奈は英会話に関しては「ネイティブスピーカー」などと渾名を貰うほど堪能なので、彼女には多くの外国人の友人がいる。
 コニーは割と最近できた友人で、蜂蜜色の金髪にパンクファッションという奇抜な格好を好む、年下の美人である。
 ファッションセンスは独特なものの、外見に反して頭が良く、聞けばM.I.T.の学生で、日本へはオタクの恋人を探しに来た――と早口でまくし立てて瀬奈の目を白黒させたものだが、その邪気のない表情に好感を持ち、時々会ってお喋りするという間柄である。
 ある時、いらないから処分して……と美里に渡された書類の束を捨てそこね、そのままコニーと会ったことがあった。
 話が弾む中、瀬奈の持つ書類に興味を覚えたコニーにせがまれ、そのままそれを見せたところ――

「Hu,n...Oh! It’s very exciting!!」

 なまじ頭が良かったのが幸いしてか(あるいは災いしてか)、コニーはこの論文を貰えないかと言ってきた。もともとそれを処分するつもりだった瀬奈は、これ幸いとゴミ処理感覚(と言ってはコニーに失礼か)で押しつけてしまったのだ。

「いけなかったの?」
「いけなくはないのよ……どうせトンデモ本的な扱いで読み捨てるつもりだったんでしょうしね。……実質的になんの役にも立たない代物なんだし」

 なら何が問題なのよ? そう目で問いかける瀬奈に、美里は口を開いた。

「……問題は、その論文がM.I.T.の客員教授になってる枯草教授に見られちゃった、って事なの」

 枯草教授? どこかで聞いたような……? と首をかしげる瀬奈に、聞き役に回っていた素直が助け船を出した。

「枯草教授ってアレじゃない? ほらっ、半年くらい前に痴漢の現行犯で逮捕されて、そのまま大学をクビになっちゃった人」
「……あの恥知らずの大学教授!? 日本にいないと思ってたらアメリカなんかにいたのね」

 得たりと声を上げる瀬奈だが、その表情には嫌悪が浮かんでいる。
 素直のそれも同様で、人を疑うことを知らない……とまで言われる彼女がこういった表情を浮かべるのは珍しい。
 しかしそれも無理からぬ事である。問題の教授が逮捕されたのは、瀬奈と素直が女性の感覚を体得し始めていた頃で、きわめて感受性に富んでいた時期である。そしてその時期に男の性癖の最も醜い部分を見せつけられ、さらには極めて正当な「女性の怒り」をも同時に感じさせられたのである。
 女性としての怒りと、男性としての不愉快さ――気がつけばふたりして、その痴漢教授を口を極めて罵っていたものだ。

「どうしようもない男よね……いっそ死刑にしちゃえば良いのよっ」
「そんなのが大学の教授だなんて……そんな大学つぶれちゃえば良いのに」
「ダメよ、大学つぶれたってその男は死なないじゃない。どうせつぶすなら●×△……」

 ……下品すぎて、今の彼女たちなら間違いなく言わないセリフのオンパレードだった。

 てなわけで問題の教授はふたりにとっても忌まわしい存在なのだが、美里があえてアメリカまで出向かなければならない――という事情がいまいち理解できない。
 例の論文は「価値なし」と処分したものだし、その教授にとっても役立つ代物とも思えない。

「美里、ちゃんと説明してちょうだい。何がどう問題なの?」

 しなやかな指先でメガネのツルをつい、と直す。そして噛んで含めるような口調で、瀬奈は美里に問いかけた。
 メガネの奥で輝く瞳は、凛々しさと暖かさが同居したような光を帯び、女性でも見惚れてしまうような存在感を醸し出している。

「……いつもながら思うけど、良い女ぶりだよね瀬奈お姉ちゃん。うちのガッコの女の先生の誰よりも女らしいじゃない? あたし、自分が女である事に自信が無くなってきたわ」
「……えっ? あ……そ、そんな――」

 思わずため息をついてぼやく美里に、瀬奈は目に見えて狼狽しだした。
 自分みたいなエセ女が「いい女」呼ばわりされて良いはずがない。本物の女性に失礼じゃないか……そんな思いを強く抱いている瀬奈にとって、それは褒め言葉にならないのだ。

「……っ、は、話をそらさないの美里っ。ちゃんとあたしの質問に答えてっ」
「はいはい、瀬奈お姉ちゃん」

 苦笑しながらも、逆らわない美里。瀬奈の方は瀬奈の方で、「良い女ぶり」のセリフに動揺し、ついどもってしまったが、その辺あたりも美里には筒抜けだろう。
 見た目も仕草も女性としては完璧な瀬奈だが、微妙に間が抜けているところがあり、逆にそれが人気に拍車をかけているのだ。

 先日もこんなことがあった。
 校内で行われている「裏アンケート」で、並み居る女教師や女生徒たちを押さえて「いい女No.1」の座に輝いたのが、他ならぬ北原瀬奈であったのだ。しかも「同性」の女生徒女教師たち(なぜか皆美人揃いだったが)も投票に加わり、満場一致でトップに選ばれたのだという。
 彼女たち曰く――

「いやあ、あの人にはとても敵わないわね。嫌みもないし品も良いし、何より可愛いし♪」
「そうそう♪ 見てて飽きないもんねえ、あの人。いるだけで一幅の画だわね」

 ね〜っ♪ と満面の笑みで諸手を挙げたものである。
 そのことを聞かされた瀬奈は、気恥ずかしいやら申し訳ないやら、それでも何故か心が浮き立つような嬉しさを覚え、数秒後にはそんな自分に自己嫌悪を覚えて落ち込んでしまう。
 その仕草ひとつひとつが、より微笑ましさを助長している事には、全く気づいていない瀬奈先生であった。

「…………」

 紅茶をカップに注ぎながら、気を落ち着けようとする瀬奈。
 美里も素直も沈黙したまま会話の間を計っていたが、やがて美里が真剣な面持ちで口を開いた。

「――件(くだん)の枯草教授だけどね、例の事件以前でも『サイテー』って評判の人で、他人の功績を横取りするとか、自分のミスを他人に押しつけるとか……噂じゃなくて、実際にやってるらしくてね」
「なによそれ? よく訴えられないわね」
「あたしもそう思うんだけど、金だけは持ってる奴だから、どうにかなったみたい。……まあ、それはともかく、これ見てよ」

 真顔に戻って語る美里は、話しながら手元のバッグから一通の封書を取り出した。
 海外便(エアメール)である。発言内容に露骨に顔をしかめた瀬奈と素直だが、渡された手紙を開いて一読すると、ますます嫌そうな顔した。瀬奈の背後から手紙をのぞき込んでいた素直が、黙り込んだ瀬奈に代わって美里に問いかけた。

「ずいぶんと回りくどい書き方してたけど、要するにこういう事? 『君の論文は読ませて頂いた。聞けば君はまだ高校生であるという。その歳でこれだけのものを書いたのは大したものだが、この世界で伝手(つて)を持たない君では例え発表したとしても、おそらく相手にはされまい。私が代わって発表させて頂こう。ありがたく思うように』」
「ふざけた事言ってんじゃないってのよっ、あのゲス教授! あの論文が使い物にならないって事にも気が付かない低脳のクセにっ」

 だん! とテーブルを叩く美里。ずいぶん程度の低い教授がいたものだ……と内心あきれた瀬奈だが、それなら尚の事『美里の渡米』の意味がわからない。素直も同様に思ったらしく、瀬奈より先に美里に話しかけた。

「なら、なおさら放っとけば良いじゃない。発表したところで恥をかくのはあいつだけなんでしょ?」
「それで済むなら苦労はないわよ。言ったでしょ? 『他人にミスをなすりつける』って」
「……それって、つまり?」

 発表したあとで、程なく論文の矛盾点が発見されるだろう。そうなった時、教授はこう口にするはずである。「あれは私が書いたものじゃない。知り合いの娘が書いた未熟な代物で、私のモノと勝手にすり替えたのだ。気が付かなかった私も不覚だが、そもそもこの私があんな不完全なモノを書くハズがないではないか……」

「まずい事にあの論文にはあたしの名前も直筆で入ってるしね。あんなモノの作成者として名を残すのは、あたしの沽券に関わるわ。何としてでも取り返さなきゃ」

 拳をぐっと握りしめて決意を語る美里。
 『取り返す』とは言うものの、実際にはそれほど簡単なワケではあるまい。「返せ」と言ったところで素直に返す輩でもないだろうし、最悪の場合は裁判沙汰に持ち込まれるかも知れない。勝てない裁判ではないだろうが、解決までにいつまでかかるやら見当も付かない。
 元を正せば処分に失敗した自分の責任だ。瀬奈は申し訳なさそうに謝るしかなかった。

「ごめんなさい、美里。元はと言えばあたしの責任なのに。出来ればあたしも行って手伝いたいところだけど……」
「無理よ、お姉ちゃん。パスポート持ってないでしょ?」
「……そうね。仮に作りたくても戸籍と今の性別が違うから、申請が通るはずがないし」

 たとえ今すぐ男に戻って申請したとしても、発行されるまでには二週間以上かかる。
 美里としても、それまで待っている訳にもいかないだろう。

「わかったわ、気をつけて行ってらっしゃい。……でも、あなたは駆け引きが苦手なんだから、コニーやマークたちに協力を仰ぎなさい。連絡しておいてあげるから」
「うん、その辺は頼りにしてる。期待してるわ、瀬奈お姉ちゃん」

 瀬奈が自身の人脈を使ってサポートする。気の滅入る闘いを強いられている美里にとって、それは有効に作用するはずだ。
 今回の件では何の手伝いも出来ない素直は、あらためて姉の実力の一端を知る思いだった。

「姉さんも不思議な人よね。外国に行った事ないのに、外国人の友だちはいっぱいいるんだから」
「そうね、自分でもありがたいと思ってるわ。みんないい人だしね」

 微笑みながら呟く瀬奈。その聖母のような笑みに、美里も素直もドキリとしたものだ。
 瀬奈はそんなふたりの心情には気づかぬまま、教師らしい提言を美里に告げる。

「……だから美里、この際だから本格派の英語をきちんと勉強していらっしゃい。そうしたらたくさんの友だちを作れるわ。友だちの数はそのまま人脈となって、あなたの力になるでしょう。この機会を目一杯利用するのよ、いいわね?」
「ありがとう、瀬奈お姉ちゃん。――正直厳しいけど、頑張ってみる」

 とても良いシーンなのだが、感動の面持ちで見つめていた素直が、ふと気づいたように声を上げた。

「あのさ、盛り上がってるトコ申し訳ないんだけど……今日のお茶会って、あたしたちが元に戻れる、っていう前祝いなんじゃなかった?」
「「……あ」」



 そのあと美里は、三日後には必ず薬を完成させる約束をした。そしてその足で渡米することになるので、元に戻るのを確認しては行けないが、許してほしいと告げる。
 瀬奈も素直も笑って了承し、残りの時間は女性同士として和やかなお喋りが続いたのである。

 ――こんな『女としての』楽しい会話は、これが最後になるでしょうね……

 そんな事をふと考えて、瀬奈はわずかに淋しい思いを抱いた。





 ――と・こ・ろ・が!

 学校一の『良い女』北原瀬奈先生と『美人女子高生』北原素直の充実した『女性としての人生』は、まだまだ終わりを告げる事はなかったのである。

 永久に終わらないかも知れないが……(笑)







 三日後――
 約束どおりに調合して貰った美里お手製の薬を手に、瀬奈と素直は学校に向かった。
 本当はすぐに飲みたかったのだが、完成したのが明け方とあって、そういう訳にもいかなかったのだ。
 さすがに前回のように『お葬式』までさせるつもりはないが、これっきり女にはならない事を宣言しておく必要もある。大いなるブーイングが起こるのは想像が付くが、瀬奈としても譲るつもりはない。

「だいたいみんな、あたしみたいなエセ女に騒ぎすぎなのよ……その気になれば本物の、もっと良い女性(ひと)がいるはずなのに……」

 ぶつぶつと呟く姉に、それはどうかしら? と内心で突っ込む素直。
 彼女自身の目から見ても、瀬奈の女っぷりは際立っている。『性転換クラス』である級友たちのみならず、瀬奈を目にした友人知人が全て同じ意見――あんな良い女見た事ない!――なのだから、どちらの意見が正しいかは自明の理である。
 ちなみに素直自身も「あんな可愛いコ見た事ない!」と言われているのだが、まったく知らないし、そもそも興味がない。

 似たもの姉妹(正確には叔母と姪)である……



「それじゃみんな揃ってる今のうちに言っておくけど、明日には全員元の姿に戻って来なさい。お祭りとお遊びは今日で終わりよ。いいわね?」

 朝のHRで、瀬奈が教壇からクラスに告げた。
 言われた生徒たちは、「え〜っ」とか、「そんなあ〜っ」などと重い返事で、いまいち積極的な響きがない。
 それもそのはず、現在クラスの中で「今すぐ元の性に戻りたい」と真剣に思っているのは瀬奈ひとりだけである。姉の意志を尊重して口にはしないようだが、素直ですら怪しいものだ。

「…………それじゃあ、朝のHRはこれまで」

 ――無理強いは趣味じゃないけど、この際強引に言った方が良いのかしら?

 そう自問しないでもなかったが、結局瀬奈は生徒たちの自由意志に任せる事にした。言うだけ無駄……という気がしたのも事実だが。
 肩を落として教室を去る瀬奈を見送り、生徒たちはわいわいと話し始める。

「……ねえ、どうする?」
「どうするって……元の性別に戻るしかないんじゃない?」
「やだな〜、もうちょっとこのまま楽しみたいなぁ」
「ねぇ、素直はどうなの? 男に戻るの?」
「え? あたし?」

 みんなの意見を聞くともなしに聞いていた素直は、突然問いかけられて戸惑った声を上げた。
 気が付いたらクラスのほどんどの視線が自分に集まっている。う〜ん……と首をひねりながら指先で頬をぽりぽりと掻いてみる。
 別に意味はないが、考え事をする時の素直のクセだった。

「男に戻ると思うわ。多分ね……」
「なによ、その微妙な表現? 戻る、とか、戻らない――ってはっきり決めてないの?」

 釈然としない口調で素直を質す元男子の女子生徒。
 実際その通りなのだが、何故そうなのかは自分でもよくわからない。以前自分だけ戻った時、姉との間が微妙にギクシャクした事があって、その事に起因しているのかとも思うが……自分自身の望みとしてはどうだろう?

 ――あたしは本当に男に戻りたいの? ひょっとしたら女の子のままでいたいのじゃないのかしら?

 女性としての生活が長くなるにつれ、そんな思いが頭をよぎるのだが、姉の瀬奈の意志を最優先する素直としては、彼女の意に反することはしたくない。
 瀬奈が男に戻る意志を公言している以上、自分も戻ると決めてしまっても良いはずだが、美里の渡米の話を聞いてからこちら、何か漠然とした不安を覚えるのだ。

 ――このままなにも考えずに決めて、その結果どちらかが戻れない事態に陥ったら、美里ちゃんもいないし……取り返しが付かないじゃない。姉さんが男に戻るのを確認しない限り、あたしは先に戻る訳にはいかないわ。……でも、もし元に戻れないのなら、いっそふたり揃ってこのままの方が……

 素直自身気が付いていないが、このあたりの思考には、自分たちの基本型(デフォルト)が女である――という認識がすでに成されている。
 考え込んで沈黙している素直をよそに、生徒たちは口々に話しかけてくる。

「男に戻るって決めてるワケじゃねーのか?」
「ならちょうど良いじゃん。素直から瀬奈先生を説得してくれよ」「おー、それ良い!」
「俺たちまだ戻りたくねーもんな。素直たちも半年もそのままだったんだし」
「そーよねえ……あたしたちだって、もっと女の楽しみ味わいたいもん」
「おうっ、それならオレたちだって」

 「な〜っ」とか「ね〜っ」とか言う相づちの声が響き、期待を込めた視線が再び素直に集中する。
 みんな外見どおりの――男子はワイルドな、女子は女の子っぽい――言葉使いを、きわめて自然に使いこなしているが、本来はクラス全員性別が逆なのだ。面白いもので男子たち(本来は女子)の中で「僕」という一人称を使っているのは数えるほどしかおらず、みんな「俺」ばかり。女子たち(本来は男子)も必要以上に可愛らしい仕草が目立つ。一人称も全員「あたし」だ。
 何かの反動かしら? ……などと自分の事は棚に上げて思う素直だった。

「えっと……みんなそうなワケ? まだ元に戻りたくないって?」
「「「「もっちろん♪」」」」

 即答&見事な合唱である。素直は再びう〜む、と唸りながら腕を組んで考え込む。
 組まれた腕から豊満なバストがむにっ……と持ち上がるが、今となっては気にもならない。

 ――みんながみんな、これだけ満足してるなんて……そんなに前の性に不満があったのかしら? ………いえ、違うわね。今の性を目一杯楽しんでるんだわ。まあ、自分から進んで性転換したんだから、それも当然か……

 そんな教室の中でも、わいわいと集まっている素直たちとは離れた場所で、ふたりだけの空間を形成している生徒がいた。
 現在の「我も我も即席性転換」状態の原因となった、殿村美姫(元・士郎)と早乙女恭兵(元・香々美)である。

「ねえ、恭兵くんはどうするの?」
「僕はまだ元に戻らないよ。だいいち舞台はまだ始まってないんだし、今戻ったら意味ないじゃないか。……美姫はどうするのさ?」
「……わかってるクセに」

 顔を赤らめて拗ねたような口調で、恭兵の胸を指でなぞる美姫。
 最近とみに女っぽくなっている彼女の仕草に、恭兵は顔を紅潮させ、思わず息をのんだ。

「み、美姫――ちゃ、ん……?」
「女の子に戻らないのは舞台のためだけなの? ……あたしの告白を受け入れてくれたのは嘘だったのかしら?」
「ち、違うよ!」

 思わず声を上げる恭兵。すぐにはっとなって周囲をうかがうが、自分たち以外はみんな、

「瀬奈先生に直談判しよう!」「賛成〜ッ!」
「じゃあ、お前行けな!」「嫌よ、言い出しっぺが行くべきじゃない。あんた行きなさいよ!」
「俺だってやだよ! 職員室で瀬奈先生に逆らったら、他の教師どもにフクロにされるんだぜ!」
「ならあたしだって……!」

 ……てな論争を延々繰り広げていて、恭兵たちの声など聞こえていないようだ。
 彼は安堵の息をつき、顔を伏せている美姫に優しく話しかけた。

「……そう聞こえたのなら謝るよ。美姫に告白された時、僕は嬉しかったんだ。僕は香々美だったときでも恋ってのをした事がなかったんだ。告白された事はあったけど、全然興味がなかったんで全てお断りしてた……はっきり言って、男が嫌いだったのかも知れない」
「恭兵くん……」
「でも、そんな僕に君が恋心を抱いて告白してくれた……純粋に嬉しかったんだ。恋ってこんなに良いものだって、君が僕に教えてくれたんだ。あらためて君にお礼を言うよ。ありがとう、美姫ちゃん」
「ありがとうだなんて……あたしの方こそ嬉しい。ありがとう、恭兵くん……」

 目尻に涙を浮かべて微笑む美姫。
 女の子の泣き笑いの表情がこれほど美しい事を、恭兵は間近で知る事になった。そしてその感動は、彼にひとつの決心をさせる。

「だから……」

 おもむろにポケットに手を突っ込み、小さな袋を取り出す恭兵。
 それが何かは美姫も知っている。数ヶ月前に自分もお世話になった『性転換薬(男→女用)』である。

「……こんなものは、もういらない」
「ああっ!?」

 恭兵は開いた窓から無造作に、薬の袋を捨ててしまった。
 驚いて声を上げる美姫。だが、恭兵はさばさばしたような表情を浮かべ、そして視線を美姫に転じて、にこり……と笑って見せた。

「僕はこの行為を後悔しない。たとえ君が僕の事を嫌いになって、男に戻ったとしても、君を好きになったこの瞬間は永遠に僕にとっての宝物になると思うから」
「恭兵くん…………大好き!!」

 感動のあまり、思わず恭兵の胸に飛び込む美姫。恭兵も彼女を優しく抱きとめる。まるで映画か演劇のワンシーンのように……
 問題があるとしたら、ここは平日の学校の教室であり、しかも授業時間が始まっている――ということだろう。

「「……!?」」

 はっと気づいたふたりがあたりを見回すと、級友たちと授業にやってきた女性教師(瀬奈ではない)が、頬を赤らめ固唾をのんで自分たちを見つめていた――

「あ……」「いや……その……」

 顔を真っ赤にして狼狽する美姫と恭兵。
 次の瞬間、舞台劇のカーテンコールのような歓声が巻き起こった。
 そしてこの時の『感動劇』は、この後も伝説として学校に残り……長く「良い話」として語り継がれていくことになる。






 だがしかし、この時恭兵が投げ捨てた『問題の薬』が、瀬奈と素直の人生に重大な転機を与えることになろうとは、この場では誰も知り得ようもないことであった。







 一方、職員室の瀬奈は孤独な闘い?を強いられていた――

「せ、瀬奈先生……けっ、結婚してください!」
「イヤです! 結婚なんて出来ませんっ!」
「そうだぞ、引っ込んでいたまえ。瀬奈くんは僕と結婚するんだから」
「馬鹿言わないでくださいっ! 誰とも結婚なんかしませんっ! 第一できませんっ!!」
「あー、瀬奈先生。ご両親にご挨拶したいんだが、明日で良いですかね?」
「挨拶なんか結構ですっ! ……ていうか相田先生っ! あなた結婚してるでしょうがっ!?」

 手に花束やら指輪ケースやらを持った三人の教師が、嫌がる瀬奈を無視して求婚合戦を繰り広げている。
 瀬奈の方は金切り声を上げているが、いまいち効果が出ているとは言い難い。誰も彼女のセリフなど聞いていないからだ。

「いい加減にしてくださいっ! もうすぐ授業が始まるんですよっ!」
「それなら簡単だ。僕に向かって、ひとこと『はい。よろしくお願いします』と言えば良い。簡単だろう?」
「言えるワケないでしょうっ!? 何故あたしがあなた方と結婚しなければならないんですっ!?」
「『あなた方』と言うのは心外です。瀬奈先生と結婚するのは僕だけですからね」
「あー、勝手に人の婚約者を盗るのはやめたまえ。瀬奈先生……いや、瀬奈。こんなワケのわからん男どもの相手をするのは感心しないぞ?」
「あ・な・た・が一番ワケ解りませんっ! そもそも呼び捨てにされる憶えなんかありませんっ!!」
「そうですよ、失礼じゃないですか。彼女を呼び捨てにして良いのは僕だけです。ねえ、瀬奈?」
「だ〜からああっ――!!」

 ごすっぼごっがすっ!!

 次の瞬間、重い音が三連続で響き、「六法全書」「知〇蔵」「イ〇ダス」の直撃を喰らった三馬鹿教師がその場に昏倒する。

「「「……いい加減にしなさいってのっ! この馬鹿どもっ!!」」」

 異口同音に怒鳴りながら、三人の女教師が振り下ろした分厚い凶器を、よっこらしょ……と担ぎ直す。
 見ている分にはマンガチックで充分以上に面白いのだが……さすがに瀬奈が気の毒になってきたらしい。何と言っても北原瀬奈という女性は、この学校最大のアイドルなのだから。
 瀬奈は膠着状態に陥った闘い(笑)から解放され、心底安堵の息をついた。
 そして頼もしい援軍に、満面の笑みを向けて謝意を示す。

「……助かりました。感謝します、大原先生、樋山先生、泉川先生」
「気にしないで良いわよ。それより名前で呼んでくれた方が嬉しいって言わなかったっけ、瀬奈?」
「そうですよ。この馬鹿どもならともかく、私たちとなら良いじゃないですか?」
「同感だね。感謝すると言うなら、ぜひ名前で呼び合いたいものだ。名字じゃなくてね」
「……わかったわ、由美、奈津子、沙耶。――これでいいのかしら?」

 苦笑を浮かべながら女教師たちのファーストネームを呼ぶ瀬奈。
 とたんに彼女たちの笑みがぱあっと輝き、手にした凶器を駄目押しのように『馬鹿ども』の頭に叩き落として瀬奈に駆け寄った。
 踏みつけにした『何か』が足元で、「ぐえっ!」とか「おぎゅっ!」とか声を上げたような気がしたが…………何の問題もない。

「良い良い! あたしずっと瀬奈とこうやって呼び合いたかったのよ。やっと願いが叶ったわ」
「良いですよね。瀬奈さんって、私の憧れの女性なんですよ。知ってました?」
「ふむ……。やはり良いものだな。これで一杯酌み交わせたら最高なのだが」
「あははは………」

 三者三様の喜びように、瀬奈は乾いた笑いをもらすしかなかった。
 彼女たちが純粋に自分に好意を抱いてくれるのは嬉しいのだが、ここにいる「女の」自分は、明日にはいなくなる予定なのだ。
 それを思うと、「新たな友情」を単純に喜べない……そんな瀬奈の思いを察したのか、由美は表情を引き締めて声をかけた。

「……やっぱり明日には男に戻っちゃうの? せっかく友だちになれたってのに?」
「淋しいです、瀬奈さん。一度一緒にお菓子を作り合いたかったのに……」
「友との別れというのは、いつだって辛いものだ。ましてやもう会えないとあれば、今生の別れと変わらない。私たちの悲しさを察しては貰えまいか、瀬奈?」
「ごめんなさい。もう、ずっと前から決めてた事だから……」

 目を伏せて申し訳なさそうに謝る瀬奈に、三人は代わる代わる彼女を抱きしめ、名残を惜しんだ。
 瀬奈も目頭を熱くして、抱かれるままになっていた。このまま時が止まってしまえばいい……そんな思いを彼女たちが抱いたかは不明だが、現在の自分を無条件に求めてくれる三人に、瀬奈は心を大きく揺り動かされた。
 涙さえ浮かべそうになる瀬奈を察してか、三人はそれ以上の無言の懇願をすることなく離れた。そして優しく語りかけた。

「さ、もうすぐ授業よ。生徒たちにお別れの挨拶をしてらっしゃい」
「たぶん泣かれると思いますよ。覚悟しててくださいね」
「ま、これも瀬奈の人生だ。……ほら、涙を拭け。君は立派な大人だろう?」
「……はい。ありがとう、みんな」

 ……よくよく考えたら、別に瀬奈は退職するワケではない。今日帰って明日になったら、「北原誠治先生」として登校してくるだけだ。
 今日涙で別れても、明日には同じ顔に会うことになるので、瀬奈的に見れば何の変化もないはずである。
 だが、この場でそんな無粋なことを言う奴は、馬で蹴られること必定であろう。

 ほら、現実に――

「何盛り上がってんですか? 北原先生は明日からおと――」

 そんなセリフを口走ったとある教師は、皆まで言わずにまわりの教師どもによってたかってタコ殴りにされ、簀巻きにされた上に職員室の窓から外に投げ捨てられてしまうのであった。
 同情の余地はあるが、作者としては次の言葉を贈りたい。『空気嫁』と……







「――素直、ここにいたのね」
「姉さん……?」

 放課後、誰もいなくなった屋上で手すりに肘を預け、夕暮れの街を眺める美少女がひとり。
 風が亜麻色のポニーテールをなびかせ、えもいわれぬ可憐さを演出している。だが彼女――素直自身には、自らの可愛らしさや美少女であることの自覚など欠片もないので、どんなに褒められようとその気になったことは一度もない。近頃ではこの学校一の美少女として、学外からも素直目当てのウォッチャーが出現しているとも聞くが、彼女自身は相も変わらず無条件の微笑みを万人に対して投げかけるのみだ。
 人気が出るはずよね……などと自分のことは完璧に棚上げして思う、学校一の美人教師、北原瀬奈先生。

 似たもの姉妹(正確には叔母と姪!)である。くどいようだが……

「こんな所でどうしたの? もう帰ったのかと思ったけど」
「ちょっとね……。姉さんこそどうしたの?」
「……たぶんあなたと同じ事だと思うわ」

 それだけ言って、瀬奈は素直の隣に身を置いた。同じように手すりに肘を預け、夕闇迫る街に視線を投げかける。
 しばしの沈黙の後、ぽつりと瀬奈が口を開いた。

「……泣かれちゃったわね」
「姉さんも……?」
「ええ。もう大変。ほとんど授業にならなかったわ」
「あたしの場合は休み時間ごとに教室につめかけられて、今のままでいてーっ、て連呼されて……」
「で、そのまま泣かれたってワケ? 相変わらず人気者ね、素直ちゃんは」
「姉さんにはかなわないわよ。さすがにあたしに『結婚して』って迫ってくる人はいないから」
「……いなくて良いのよ、あんなのは」

 職員室の騒ぎは、もう生徒たちに知れ渡っているらしい。瀬奈はこみ上げてきた頭痛を堪えるようにコメカミを揉んだ。
 話のタネとしてはなかなか面白いであろうが、当事者からすれば、悪夢以外の何ものでもない。
 またしばしの沈黙。夕闇がやや濃くなってきた頃、再び素直が口を開いた。

「ねえ、姉さん?」
「なあに?」
「やっぱりまだ戻りたい? 男に」
「……どうして今さらそんなこと訊くの?」
「だって、姉さんの表情(かお)……元に戻りたいように見えないから」
「……………………」

 再び沈黙。それに対する瀬奈の答えが何であったのか、形になる前に――

 ♪広い〜宇宙に〜 ひと〜りだけの〜 君が〜そばにいてくれる〜な〜ら〜

 突然の着メロが響き渡る。
 曲目はKOTOKOの『Shooting Star』。瀬奈の携帯であった。

「はい、北原です。――あら、校長先生? どうなさったんです? はあ……そうですが? ……今からですか? いえ、迎えに来ると言われても……。あたしもいろいろとありますし……。……いや、そんな涙声で言われても困ります。明日じゃダメなんですか? ――理事長先生……ですか? いえ、お目にかかったことはありませんが……」

 訝しげに会話をする瀬奈に対して、素直は所在なげに溜息をついたりしているが、やがてその会話内容に聞き捨てならない単語が混じるのを耳にして、思わず瀬奈の顔を凝視する。

 ――え、やだ……夜のナニヤラのお誘いかしら? 姉さんなら充分あり得る話だけど……いえ、それなら断固阻止しなきゃ。しつこいようなら、姉さんから携帯を取り上げてでもお断りしないと……

 姉さんはあたしが守る! とばかりに拳をぐっと握りしめた素直だが、次の瀬奈の言葉を耳にして硬直してしまった。

「……あ、あの、もう一度言って頂けませんか? 理事長先生が……女になった? しかも、すごい美人に……って、いえ、そんなことはどうでも良いんですが――」
「…………」

 思いもかけない会話内容と展開に、瀬奈と素直は無言で互いの顔を見合わせた。







 瀬奈と素直が通う櫻川高校は私立校である。理事長は学校の経営陣のトップであり、厳密に言えば教師ではない。それなのに「理事長先生」と言う呼称が存在するのは、『先生』という敬称がすなわち「偉い人」の代名詞のような響きを持っているからだ。
 それはともかく、この学校の理事長という「センセイ」の存在は瀬奈も素直も知ってはいたが、実際に会ったことはおろか、遠間から見たことすらない。非常に多忙な人物で、政界財界に太いパイプを持っている――とか、数十人単位で妾を抱えていて実子は百人を超えている――とか、色々噂は先行しているので、話のネタ程度には知っている、というのが実情だ。
 ちなみに実子は百人以上――と言う噂から、

「木戸って名字じゃないか?」「ば〜か。違ぇよ。八百だ、ヤ・オ!」

 などという会話を生徒たちがかわしているのを、聞いたことがある。
 もっとも瀬奈はアニメやマンガなどのサブカルチャーにさほど詳しくないので、意味はわからなかったが。

「「…………」」

 というわけで、瀬奈も素直も初めてお目にかかった「理事長センセイ」であるが、それは美女美少女として名高いふたりをして、思わず溜息をもらすほどの美人であった。
 身長は一八〇センチを優に超えているだろう。シミのない滑らかな肌は白磁のように輝き、ウエーブのかかった黒髪は優雅なラインを描きながら、腰まで流れている。
 切れ長の瞳に整った鼻梁の文句なしの美女で、ため息が出るほど見事なボディラインを、淡い紫色をした女物のスーツ――今の体に合わない男物を着てお客を迎えるのは「失礼」だと用意させた――に包んでいた。

「ようこそおいでくださいました、北原先生、素直くん――あ、いや、素直さん。私が櫻川高校の理事長、神宮寺です」
「――っと、し、失礼しました、理事長先生。二年B組の担任をしております、北原瀬奈です」
「き、北原素直……です。は、初めまして……」

 あまりのことに呆然としていたふたりに、理事長――神宮寺が優雅に微笑んだ。
 我に返った瀬奈が気を取り直すように挨拶を返し、つられて素直も頭を下げ、ようやく時間が動き始めた。

「あ、あの、いったい何があったんですか? 校長先生からの電話では、あまり詳しい事情は伺えなかったんですけど――」
「そうですね。順を追ってお話ししましょう。すべては私の好奇心が招いた結果なのでしょうが……」

 瀬奈の問いに、美女神宮寺は訥々と語り始めた。

「昼頃に校長に案内されて校内を回っていた時、校庭の一角で薬が入った小袋を見つけたのです。ちょうどそこは北原先生、貴女のクラスからほど近い場所でした。捨てたのか落としたのかは不明ですが、袋に書かれた『取扱注意・美里』の但し書きから、校長があなた方もご存じの、『例の薬』だと教えてくれたのです……」

 袋に入っていたのはピンクと白の紙に包まれた薬二種。
 誤飲防止のためか、ピンクの薬の方には『男→女』と書かれてあった。白い方は無印だった。

「男が女になる……神の御業とも言うべき代物が目の前にある。好奇心を刺激されるには充分でした。……不安材料は『無事に元に戻れるか』ということだけでしたが、瀬奈先生や素直くん――素直さんは何事もなく一度は元の姿に戻っている、という実例があったので、なら一緒に入っている薬こそが、『解毒剤』のようなものだと判断したのです」

 だが理事長と校長が解毒剤だと信じた薬は、瀬奈や素直、そして元男子の女生徒たちを「より」女っぽく変化させたおまけの薬だったのだ。
 それにはどうやらホルモンや女性的因子を爆発的に増殖させる効果があるらしい。「らしい」と言うのは開発者の美里の言葉だが、理屈や効果を把握せずに作り続けられる――というのが何とも彼女らしい。
 ちなみに男性にこの薬を使ったらどうなるのか? 訊いた瀬奈に対する美里の答えは、

「……聞かない方が良いよ、お姉ちゃん」

 という、何とも苦渋に満ちたものだった。なにか薄ら寒いものを感じて、瀬奈はそれ以上聞くのをやめたほどだ。

「それにしても……なんでそんな厄介な代物が校庭に落ちてたのかしら?」
「……あ、あの時のアレかな?」

 瀬奈の疑問に、素直が朝にあった『ラブシーン』を語って聞かせた。
 「神の偉業」とも言うべき貴重な薬をあっさり投げ捨てたと知って、瀬奈は思わず頭を抱えた。

「……まったくもう、あのバカップルは」
「良いじゃない。あたしはちょっと羨ましいかな?」
「……素直?」
「あのふたりは自分に正直だと思うもの。あたしに同じ事ができるか、って思うと、ちょっとね……」
「自分に正直に、か……」

 瀬奈は自問する。「男に戻りたい」と常々口にしているが、今の自分はそれほど「元の自分」に固執しているだろうか? 戻りたいのは戸籍の問題や親や妹たちに対する世間体、それだけが理由ではないだろうか?
 もともと親とは折り合いが悪いし、好きな女性がいるワケでもないから、いっそ今の姿の方が気楽なくらいだ。

 だとしたら、あたしは…………?

「好奇心猫を殺す、とはよく言ったものです……まさか我が身でそれを痛感することになろうとは思いませんでした。今まで泣かせてきた人々の呪いでしょうか? これは」

 自嘲気味に呟く神宮寺だが、校長はそれとは対照的に、終始狼狽している。そして顔面蒼白となって苦渋の声をもらした。

「まさかもうひとつの薬にそんな効果があろうとは……理事長、誠に申し訳ありません。こ、この責任は如何様にも――」

 真っ赤になって何度も頭を下げる……「おまけの薬」を解毒剤だと勘違いして理事長に教えたのは、どうやら校長のようだ。

「校長、今は責任の所在をどうこう言っている場合ではありません。事態は切迫しています。何としても明日までには元に戻っておかないと……この姿のままでは株主との会合に出席できません」
「そ……そうでしたな……」

 汗を拭き拭き校長は、瀬奈の方に向き直った。

「北原先生、確か薬を作ったのは貴女の妹さんの、北原美里さんでしたね。彼女に頼んで、大至急『解毒剤』を用意して頂けないでしょうか?」
「え、えっと……」

 身を乗り出すように瀬奈に懇願する校長だが、瀬奈としても応えようがない。
 何と言ってもその当人が、今、日本にいないのだから。

「そう言われましても……美里は今朝早くの便でアメリカに発ったので、今は機上の人なんです。連絡しようにも、明日にならないと――」
「なんですと!? そ、それは本当ですか!?」

 瀬奈の絶望的な言葉に、校長は悲鳴のような声を上げた。
 声こそ上げなかったものの神宮寺も同様のショックを受けたらしく、形の良い口に手を当てて息をのんでいた。

「何と言うことだ……このままでは理事長は二つの会社の経営権を手放すことになってしまうっ。ど、どうにかならないのかっ!?」
「校長、あなたが騒いだところでどうにもなりませんよ」

 頭を抱え込んだ校長に対し、神宮寺はあくまで冷静だった。
 一瞬蒼白になったものの、すぐに気を取り直すように頭をひとつ振ると、落ち着いた口調で言葉を継いだ。

「……北原先生、なるべく早くで良いので、何とか妹さんと連絡を取って頂けませんか? 私自身はともかく、なるべく犠牲は抑えなければなりません。そのためには一刻も早く元の姿に戻る必要があるのです」
「理事長! そんな悠長なことを言っている場合ではありません。明日の会合に出席できないと、この学校の経営権まで失ってしまうのですぞ? それでよろしいのですか?」
「……!!」

 校長の言葉に瀬奈は息をのんだ。今の台詞が真実なら、この学校そのものが危うい。
 学校自体がなくなることはないだろうが、今の職場環境は著しい変化を迎えるだろう。
 素直も同様にショックを受けていた。彼女は今の学校が好きだった。瀬奈たち教師陣も、今の自分たちをおおらかに認めてくれる級友たちの存在も。
 それがなくなるかも知れない……?
 言葉を失っている瀬奈と素直を尻目に、神宮寺は冷静な態度を崩さなかった。

「どのみちこの姿では、あの者たちを抑えることは不可能です。この上は少しでも犠牲を小さくする事こそ賢明でしょう。……まずは社員たちを守ることです。この際私財のすべてを投げ打ってでも、彼らの生活だけは守りましょう。……それでよろしいですね、校長?」
「……り、理事長」

 苦渋の表情をしながらも、毅然とした態度で答える神宮寺。それは絶体絶命の危機にありながら、なおも不退転の決意を秘めた『戦士』の姿だった。もしくは戦女神として名高い『ワルキューレ』の九姉妹のひとり、ブリュンヒルデやオルトリンデを連想したかも知れない。今まで見た女性たちの中でも最も見目麗しく、最も威厳に満ちて、そして最も慈愛に満ちた、『女性としての理想像』の姿がそこにあった。

「…………」

 素直は姉の横で彼らのやりとりを見つめながら、今までこの人物を知らなかったことを残念に思った。
 今回の事態が彼らにとってどれだけ重大なのかは知る由もないが、そんな中で冷静さを失わず出来ることを精一杯やろうというのは、なかなか出来ることではない。
 彼女は決意を固めて大きくうなずくと、瀬奈の方を向き、その顔を正面から見据えてハッキリと言った。

「……姉さん。あたしこの人を助けたい。良いわよね?」
「ダメよ、素直」
「え!? だ、だって……!」

 素直は姉の言葉に驚き、非難するような目で彼女を見つめた。
 瀬奈はこんな場面で自分の事だけを優先するような、不人情な人物でないと信じていたからだ。
 だがそんな素直の視線に、瀬奈は微笑んで答えた。

「これはあたしの役目。この人の学校で働いているからこそ、あたしたちは不自由なく生活できているのよ……この姿になっても、ね?」
「姉さん……それじゃあ――」

 瀬奈はこくりとうなずくと、手にしたポーチから薬の袋を取り出す。
 しばしの間じっとそれを見つめ、そっと目を閉じて息をつく。
 そして吹っ切れたような微笑みを浮かべて……彼女は意を決し、決定的な一言を告げた。

「理事長先生、これを――」







「あれ……?」

 翌日、2年B組の生徒たちは、お互いの顔を合わせるなり異口同音に同じ言葉を発した。

「なんだ、結局あんたも元には戻らなかったの?」「おめーだってそうじゃねえか。四の五の言われる筋合いはねーぞ」
「別にそんなつもりはないわよ。だって……」

 女生徒はそこで言葉を切り、他のメンバーを紹介するように手を広げて見せた。
 彼女の後ろでは、昨日までと同じ姿――性転換したままの級友たちが、それぞれにポーズやサインを決めながら集っていた。

「ほら、み〜んなこうだもの。……まだ来てない素直を除けば、全員昨日のまんまよ」
「はああやっぱりな……こんなことになるんじゃないかと思ってたけど」
「考えることは一緒よね〜♪」

 彼女はイタズラが成功した時のような笑みを浮かべた。見れば全員が同じように笑み零れていた。

「さてと、後は素直だけか。……でも」
「素直、男に戻っちゃっただろうね?」
「多分な……瀬奈先生――いや、北原先生が元に戻る以上、あいつに選択肢はねえし」
「残念よねえ。ここに来てまた画竜点睛を欠いちゃうし」
「それもそうだけど……あたし、女の素直の方が好きなのよね」
「およ? レズ? カミングアウトか?」
「違うわよ! あたしが言いたいのは、素直は女の子の方が似合ってるって意味!!」
「冗談だよ、わかってるって……俺だってそう思うし」
「あたしたちもね〜♪」「俺たちもな〜♪」
「なんだ? 結局みんなそうか?」
「ま、当然だよな?」

 ひとしきりの笑いが場を支配する。
 聞きようによっては「素直は男らしくない」と酷評しているようにも見えるが、当人たちにそんなつもりはない。
 むしろ、「より」自分らしさを発揮しているように見える「素直ちゃん」を好ましく思い、それだけに「彼女」にもう会えない事を残念に思っているのだ。

「思えば瀬奈先生の綺麗さと素直の可愛さが、あたしたちの原点みたいなもんだもんね」
「特に素直は良いよ。瀬奈先生は美人だけど、いい女すぎて気楽にお話ってワケにはいかないもんな」
「瀬奈先生は尊敬する女性、素直はみんなのアイドル。そんな感じよね?」
「瀬奈先生もアイドルだけどな? ……特に職員室の」
「あーそれ? 聞いた聞いた♪」

 他人の不幸は蜜の味、と言うほど意地の悪いものでもないが、職員室で繰り広げられた瀬奈に対する求婚騒ぎは、すでに学校中の知るところとなっている。現代の「かぐや姫」とも言うべき立場の瀬奈には悪いが、これほど笑えるマジ話は滅多にない。一際大きな笑いがクラスに広がった。
 だが他人の不幸を笑う人物がいるなら、当人に代わって弁護する人物も当然存在する。

「ひどいなあ……姉さん、マジで嫌がってたのに、そんなに笑うことないじゃない?」
「いやあ、そうは言っても笑う――って……?」「す……素直?」
「なあに?」

 震える声で尋ねる級友に、屈託のない笑顔で応えるクラスのアイドル、素直。
 ひときわ小柄な身体にメリハリの効いたスタイル、ポニーテールに結わえた柔らかな質感の髪に、下手なアイドル顔負けの愛らしい容姿。
 もう会うことは無いだろうと半ばあきらめていた、昨日までと同じ姿の素直に、級友たちはわあっと歓声を上げて出迎えた。

「素直ォ! 会いたかったぞお♪」
「やっぱ素直はその姿が良いよ。俺の嫁さんになんねぇ? ……って、痛ェ!」
「悪ノリすんじゃないの! みんなのアイドルなんだからね、素直は?」
「あは、ありがと♪ あたしアイドルのつもりなんかないけど、この姿を歓迎してくれるのはすごく嬉しいよ。ありがとね、みんな」

 涙さえ浮かべながら「ただいま」の挨拶をする素直に、彼等は一斉に盛り上がった。口々に声をかけたり背中を叩いたり髪をかき回したりと、大騒ぎである。
 手荒い挨拶に翻弄されながらも、素直は満面の笑みを浮かべていた。男に戻ったとしても、みんなこれほど熱烈に歓迎してはくれまい。
 自分(あたし)の居場所はやっぱりここだ。素直は心底そう思った。

「――ところで素直? あんたが男に戻んなかったって事は……北原――いえ、瀬奈先生も?」
「姉さん? 姉さんもそのままよ。……職員室のアイドル、ってね?」

 素直の言葉に、級友たちはひときわ歓声を上げた。

「素直だけじゃなくて、瀬奈先生ともまた一緒にいられるなんて、最高じゃない」
「姉さんもずいぶん迷ってたみたいだけど、とりあえずは今の自分を楽しんでみるって。……ま、もともとまじめな人だから、あまり遊ぶとも思えないけどね」
「わ、素直、瀬奈先生批判? だいた〜ん♪」
「そ、そんなつもりないんだけど……?」

 あたふたする素直に、戯れるように話しかける級友たち。

「気にするなって素直。あーゆーまじめな女性(ひと)だからこそ、俺たちは好きなんだからな……瀬奈先生が」
「そーよ素直。あたしたちとしても、瀬奈先生にはあのままでいて欲しいわ」
「それにしても、今ごろ職員室は大騒ぎだろうな?」
「熱烈歓迎! ってね」

 一斉に同意と笑い声が広がる。
 すでに朝のHRの時刻なのに担任の瀬奈が来ない事が、その事実を証明していた。今ごろ職員室では自分たち以上の歓迎騒ぎだろう。

「――っと、そうだ。瀬奈先生には後で言うとして……」
「いまは素直に言わないとな?」
「そうね。それはぜひ言わなきゃ」
「え? なになに?」

 訝しげな表情の素直に、級友たちは互いに顔を合わせて笑うと、すうっと息を吸い込み、一斉に声をそろえた。



「「おかえりぃ、素直ちゃん!!」」






 一方、職員室では2年B組の生徒たちが推測したように、感激と歓迎のファンファーレが鳴り響いていた。涙を流してまで「再会」を喜んでくれる三人の女教師に抱きつかれながら、瀬奈は素直同様に、感動に打ち震えたのだった。

 ああ――あたしの居場所はここにある……

 何年か後に元の姿に戻ったとしても、この感動は忘れないだろう。
 瀬奈は女性化して以来、初めて自分の存在(おんな)を認めたのだった。

「「「瀬奈先生!! 結婚してくださああいっ!!!!」」」

「い――――や―――――――――ッ!!!!!!!!!」

 ――数分後、瀬奈は感動を覚えた自分に自己嫌悪することになった。



 ちなみにこの日以来、「求婚騒ぎ」は櫻川高校の名物となり、長く余人を楽しませることになる。
 瀬奈と素直の楽しくも騒がしい日常は、こうしてあらたに始まったのだった。

〈了〉





 お久しぶりのHIKOでございます。このたび城弾さんの許可を得て、彼の名作(迷作か?)「同居人」の二次創作を書かせて頂きました。
 もともとシリーズそのものは「もう終わり」と宣言されていて、新たな展開は望めないのですが、「後日談」を読んで、皆さん、こう思いませんでした?

 瀬奈センセと素直ちゃん、男に戻っちまうなんて、勿体ねえ〜〜〜〜〜っ!!!

 ハイ♪ それだけで書いてしまいました。お目汚しを……♪
 それにしても軽いノリの原作に比べて、瀬奈センセも素直ちゃんも、悩む悩む。
 何でこんなにもったりした展開になっちゃったんだろう? ま、これでもだいぶ修正したんですけどね?

 あとプロット段階ではもっと後の話もあったんだけど、会話とキャラ描写に筆を取られて、予定の1/3程度の展開までに留まってしまった。まだ書いてない話もあったのに、予定外のオリキャラがポンポン出てきて、彼らを交えると、後の話も予定どおりには進みそうもありません。
 そんなわけで、後の話を書けるかどうかは完全に未定です。感想が良ければ頑張っちゃうかも知れないけど、まだ書いてない宿題も多いしねえ……。

 ともあれ久しぶりのSS、書いていて楽しかったです。ご精読、ありがとうございました。

HIKO

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